◆高水寺城跡(岩手県紫波郡紫波町)◆

◆2010年8月1日(日)撮影
 「高水寺城」の名称は、『吾妻鏡』に記されている紫波地方きっての古刹(こさつ)・高水寺の一郭を居館としたことに由来する。城跡はほぼ岩手県紫波町の中央、北上川右岸標高180mの段丘に築かれており、範囲は東西550m、南北700mに及んでおり、周辺にも御所関連の居館跡が見出され、予想以上の規模である。
 築城時期は不明であるが、斯波氏によって南北朝時代頃に築城されたと推定される。この時期は、南朝方である北畠顕家が多賀城(現在の宮城県)に入城したことに対抗して、北朝方の足利尊氏は一門の斯波(足利)家長を陸奥守に任じ奥州の南朝勢力と対峙させた。

 斯波氏はその後いろいろな分家に分かれたが、奥州に土着した一族は奥州斯波氏と呼ばれた。その中でも高水寺城を本拠地とした斯波氏は、高水寺斯波氏と呼ばれ、高水寺城を拠点として斯波郡六十六郷を治め隆盛を極めた。高水寺斯波氏は奥州斯波氏の中でも高経長男の系統に属し、足利家一門である上に、斯波氏発祥の地を治めたことから名族とされて、天皇家・将軍家やその一族にしか許されてなかった「斯波御所」「奥の斯波殿」の尊称が許された。また、室町幕府では重職であった管領と同格の奥州探題職を歴任していた同族の大崎氏と同格の扱いを受けていた。
 戦国時代の16世紀になると三戸南部氏と対立するようになり、1549(天文18)年には南部領の岩手郡滴石(現在の雫石)に侵攻して勢力下とするなど全盛期を迎えた。しかしその後の1565(永禄8)年から三戸南部氏の進出が活発化するに従い、劣勢に立たされるようになり、最終的には三戸南部氏の傍系で家臣筋である九戸氏から養子を迎えるという降伏に近い和睦を結ばざるを得ず、事実上の三戸南部氏への従属を余儀なくされた。長く足利氏の一族として奥州北部に栄えていたが、1573(天正元)年には権威の後ろ盾であった足利幕府が崩壊し、一族で奥州探題の地位にあった大崎氏がこの頃までには奥州の一大名に過ぎない存在となっていた。かくして、政治的背景を失った斯波氏は、郡内諸城主に対する威信をも失墜し、三戸南部氏の攻勢にさらされて所領の斯波郡六十六郷の統治すら困難になっていた。
 最後の当主である斯波詮直(1548〜1597)の代には、斯波家内部の内紛が起こって家臣が離反していく中で1588(天正16)年に南部氏によって高水寺城は落城し、戦国大名としての高水寺斯波氏はついに滅ぼされた。詮直は旧臣にかくまわれてそのまま病没したと言われる。その子孫は三戸南部氏に仕えたとも、二条家に仕えたともされている。

 南部氏による落城後、「郡山城」と改称されて盛岡城完成までの一時期、南部氏の居城となったが、完成した盛岡城に居城を移した後の1667(寛文7)年に廃城となり、古材は盛岡城本丸に使用されたと伝えられている。

城主
斯波氏(南北朝時代〜1588年)→南部氏(1588〜1667年)

高水寺城跡全景

西方向。

北方向。真ん中の林には北上川が流れている。

石垣。当時のものか復元のものか不明。

本丸御殿跡にたつ看板

本丸御殿跡にたつ碑

本丸御殿跡にたつ神社。

本丸御殿から下る途中に「諏訪平」と呼ばれた所があり、かつて諏訪神社があったそうです。諏訪神社とは、長野県の諏訪湖の両岸にある諏訪大社より祭神の勧請を受けた神社で、諏訪神社を中心とした神道の信仰を「諏訪信仰」と言い、この信仰は全国各地に広まり、特に北条氏の所領に多いそうです。
敷地内には、平成元年3月に日本国有鉄道清算事業団から無償で払下を受けた鉄道車輌が保存されています。

本丸御殿跡よりの遠望

ヨ5000系(ヨ14228、ヨ14451、ヨ14476)。貨物列車の最後尾に連結されていた車掌車で、昭和36年から約20年間、東北本線で使用されました。現在は内部が開放されていて、ちょっとした休憩室になっています。

車掌車内部。手前に石炭ストーブがあります。

「昭和29年新潟鉄工所」のプレートがありました。

10t貨物移動機。
貨物移動機とは、駅構内の貨物側線などで貨車の入れ替え作業をする機械のことである。

貨物移動機内部。室内に残っていた名板から、協三工業株式会社が昭和52年に製造したものとわかります。
メモ

※斯波氏
 斯波家は足利氏の名族で、室町幕府時代には細川氏、畠山氏とともに将軍に次ぐ重職である管領をつとめるなどの名門である。斯波氏は清和源氏足利氏の一族で、足利泰氏の長男家氏(鎌倉中期、生没年不詳)を祖とする。家氏は陸奥国斯波郡(現在の岩手県紫波郡)の所領を譲られ、斯波を称したことが斯波氏の始まりと伝えられている。ただし当初は足利氏を称しており、斯波を名字とするのは室町時代となってからのことである。また、家氏は実際にこの地に下向したわけではなく、代官を派遣して統治させたと思われ、実際の下向は玄孫に当たる斯波家長の時である。
 南北朝時代は足利初代将軍である足利尊氏より斯波家長が陸奥守に任じられて斯波郡に下向し、この地に高水寺城を築城して本拠地とし、奥州における北朝の重要地域として南朝方の北畠顕家や根城南部氏と対立した。
 その後、いろいろな分家に分かれ、室町時代に幕府の三管領の筆頭となった一族(武衛家と呼ばれ本家である)や、越前、若狭、越中、能登、遠江、信濃、尾張などを領した守護大名の一族がある。
 その中で、奥州に土着した庶流の斯波氏は、奥州斯波氏と呼ばれ、高経長男の系統である高水寺斯波氏、高経弟の家兼の系統である大崎氏、最上氏などがあげられる。

※南部氏
 南部氏は、清和源氏河内源氏義光流で、源義光の玄孫の源光行は甲斐国南部の河内地方にあたる巨摩郡南部牧(現在の山梨県南巨摩郡南部町)に住み、南部氏を称したという。その後、平安時代末期の奥州合戦のころ、光行が功により奥州糠部(現在の青森県から岩手県にかけての地域)の地に所領を得て土着したと言われてきた。しかし現在では、鎌倉時代、糠部郡は北条氏得宗領であったことが明らかとなっており、鎌倉時代より南部氏が陸奥に所領を得ていたという説は現在は疑問視されていて、南部氏は北条得宗家の被官として奥州に所領を得ていたか地頭代として赴任していたと考えられるという。
 南北朝時代は一族の中で南朝(八戸南部氏)・北朝側(三戸南部氏)に分かれた。南北朝時代以後の室町期になると陸奥北部最大の勢力を持つ一族に発展した。しかし、一族内の実力者の統制がうまくいかず、そのために内紛が頻発し、一時、衰退した。この室町時代から安土桃山時代にかけての南部氏には宗家と呼べるような確固たる権力を所持する家が存在しない同族連合の状況であった。
 戦国時代になると、三戸南部氏の出身で南部氏第24代当主である南部晴政が現われ、他勢力を制して陸奥北部を掌握した。晴政は積極的に勢力拡大を図り、南部氏の最盛期を築き上げた。また、晴政は外交にも優れており、中央の織田信長とも誼を通じるなどしていた。しかし、その後は家中の内紛に苦しむことになる。晴政の晩年には南部氏の一族とされる大浦為信が挙兵し南部一族同士の争いが勃発し、為信に津軽地方と外ヶ浜と糠部の一部を占領され、為信は豊臣秀吉から所領を安堵されたために南部氏は元々不安定だった大浦氏の統制を完全に失うことになる。1582(天正10)年に分家出身の南部信直が晴政、晴継父子から家督を相続した際に晴政親子が急死していることから、晴政親子は信直によって暗殺されたとする説もある。
 1590(天正18)年、南部氏第26代当主である南部信直は豊臣秀吉の小田原の役に参陣して南部7郡の所領を安堵された。同族の九戸政実が起こした九戸政実の乱も豊臣政権の手で鎮圧され、南部氏は安定した基盤を得ることとなる。
 江戸時代、三戸南部氏は盛岡藩の歴代藩主になり、明治時代を迎える。

 南部氏にはいろいろな支族があった。
(三戸南部氏)
 三戸に根拠を置いた系統は三戸南部氏と呼ばれる。三戸南部氏の系譜は明確ではないが、南北朝時代に奥州に下向した南部氏の一族と見られている。従来、三戸南部氏は鎌倉時代にこの地に下向した南部氏の宗家と考えられてきた。
三戸南部氏は南北朝時代には北朝を支持していたが、いつごろ南部氏の宗家としての地位を築いたのかはわかっていない。

(八戸南部氏)
 南部氏は多くの支族を抱えていたが、その中で南部師行は南部氏としては記録上初めて、南北朝時代に北畠顕家に従って奥州に下向した。師行は糠部の八戸の地に根城(現在の青森県八戸市根城)と呼ばれる、従前に工藤氏の拠っていた城を接収し、居城とした。師行が一時、工藤氏を称していたとの説もある。
 南部師行の子孫は八戸氏を称し、一般には根城南部氏と呼ばれる。従来、根城南部氏は南部氏の有力な分家として見られてきたが、近年の研究では、根城南部氏が 当初は南部氏の宗家に位置付けられていたと推定されている。いずれにしても、根城南部氏は南朝を支持していたために南朝の衰退に伴って14世紀半ばからは次第に力を弱めたが、17世紀前半までは下北地方などを領有し、南部氏のなかでも比較的大きな勢力を有していた。
 1617(元和3)年には、所領のうち下北地方を、幕藩体制下で宗家としての地位を確固たるものにした三戸南部氏(盛岡南部氏)によって接収され、1627(寛永4)年に遠野(現在の岩手県遠野市)に移される。これ以後の根城南部氏は遠野南部氏と呼ばれ、江戸時代を通じ、盛岡藩の世襲筆頭家臣であった。なお、遠野南部氏が、日蓮に帰依し身延(現在の山梨県南巨摩郡身延町)の地を寄進したとされる八戸実長(波木井実長)の子孫を称するようになるのは江戸時代後期になってからである。
所在地:岩手県紫波町二日町字古館

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